物語が溢れた世の中で、なおスクラップアンドビルドをする

 スクラップ・アンド・ビルドをすることで、私たちは新しい古典を構築してゆく。解体と建設という流れは、都市や建築のみならず、組織や文化においても適用される概念である。スクラップされつづける何かと、ビルドされつづけてゆく何か。この「何か」に、人の世に流れる普遍性という神秘が潜んでいるように思えてならない。そして、哲学し、創作し、生活をする私にとって、そういった作品を世に出すことが重要な目標であることも、忘れないでいたい。

 文学・哲学・芸術などにおける「解体」とは、既存の前提とされているものの意味を壊すことである。包丁で絵を描き、時計で釘を打ち、額縁でテニスをする。それは内発的動機に基づく遊びといえる。あなたがまだ片手で数えられる程度の年齢のとき、与えられた玩具でどのように遊んだろうか。プラレールをただ単に走らせたろうか。レースゲームで逆走をしていなかったろうか。

 そうして、世の中で当然とされるルールを全く無視して、思いつきで遊んだり、身の回りのあらゆるものを別の何かに見立てたり、怖がったりしたことがあるのではなかろうか。大人が想定する遊び方を無視して遊ぶことが、子どもの遊びにはしばしば存在する。それは、スクラップと言えるだろう。

 意味を解体し、改めて意味を求めていくと、私たちは現代の生活で当たり前とされていることに疑問や気持ちの悪さを感じる。あるいは、不幸に見えていたことが幸福であるように見える。それでもやっぱり……と、変わらないものがある。その意味を絶対的なものとして立て直す。

 一編の小説を読むことで、意味の解体と再構築が行われる。意味がわかったとき、パズルのピースが嵌った時のようなハッとする感覚を得る。だが、それで全てが分かる訳ではない。全てが理性に固められた論理でまとめられるほど、この世の中は単純にはできていない。むしろ、解き明かそうとすればするほどに、未知の大きな壁に近づいていく。その大いなる物へ迫る体験を与える力がある点において、文学は未だにその価値を失っていない。そして現在であっても新しい文学が求められる理由がそこにはある。私たちは常に、答えとそれを得た実感を求めている。

 その旗手になるための有効な手段は、古典を読み、古典を解体することである。そして、そこから新しいものを組み上げていく。立ち返るべきはどこか。古典が謳ったものは、私たちの裡にいまだにあるのか。その試行錯誤の体当たりが、文学になる。一回りして素朴に立ち返るのだ。結局のところ、スクラップ・アンド・ビルドの繰り返しの中で、伝統は生じてゆくだろう。

7月17日に販売された新書『物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために』を読みながら、物語に溢れた世の中で文芸を創作する意味を考えたとき、上記のような思いが過った。

 

 

 

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