(私にとって)物語とはなにか?
代表の森山です。先日、学生時代からの文芸創作仲間から連絡があり、「あなたにとって物語とはなにか?」を語り合う会をやろう、と提案をもらいました。大変面白い取り組みだと思いましたし、また、当協会の活動においても積極的に語らいたいテーマだと思いました。
そこで、森山も「私にとっての物語とは何か?」ということを考え、文章にしてみました。エッセイのような私的な内容になりますが、せっかくなのでこちらに投稿してみます。
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「とまれ、お前はあまりにも美しい」
ゲーテの長篇詩『ファウスト』において、主人公ファウストが悪魔メフィストフェレスに魂を抜かれる前に言った最後のセリフである。
これだけだと何の事だと思うかもしれないが、このセリフにはしっかり前フリ(伏線)がある。それは物語の序盤にファウストがメフィストフェレスと契約をするとき、永遠の生命と若さを与える代わりにもし「とまれ〜」と言ったら魂を抜かれる、というものである。
この前フリがあるために、「とまれ〜」には、ファウストの不老不死の旅が終わるという物語的な意味が生じる。
いわゆる、伏線と回収である。
この伏線と回収という構成は、物語という形式の最も受け入れやすいかたちといえる。
ムファサを崖から突き落としたスカーは、ムファサの子シンバによって同じように崖から突き落とされるし、ギレンの脳天を撃ち抜いたキシリアは、シャアによって頭を吹き飛ばされる。こういった「ざまあみろ」という因果応報はよくある話である。
この、なるべくしてなった、もっともらしいことだ、という感覚は、物語を介さずとも私たちの中に根付いている。
それは、習い性とか性癖と言ってもよい。
伏線回収の例は他にもある。たとえば、『けものフレンズ』では、はじめは速く走れず、木も登れず、空も飛べなかったかばんちゃんが、終盤で親友サーバルを救うために勇気を出して木を登り、走り、敵の中へ飛び込むアクションシーンがある。これは、涙を誘う伏線回収である。
前者の伏線がざまあみろ的な伏線回収なのに対して、後者は重ねた努力が実を結ぶ成長の伏線回収である。
世の多くの創作には、伏線と回収が用いられていることが多い。
なぜならば、伏線回収とは、人の世の因果を表現する最も気持ちの良いかたちだからである。
それでは、本題にはいる。
「あなたにとって物語とは何か?」この問いに答えるにあたり、最も適切なアプローチは、私が好きな物語を通して語ることであると考えた。そこで、ここからは私が最も好きな物語である『機動戦士ガンダム』に触れながら、私にとって物語とは何かを整理していきたい。
『機動戦士ガンダム』は、主人公アムロをはじめとした少年少女が、戦争という過酷な現実を生き延びる中で子供から大人へと成長し、その果てに人類の革新を視る物語である。
『ガンダム』の物語には、アムロたちの成長が描かれいる。それは大まかに言えば、目の前の戦場を生き延びることに精一杯な状態から、経験と実力を身につけていく中で物事を正確に認識するようになり、やがて状況に対して適切に対処し、あわよくば積極的に主導権を握っていくという変化である。
正確で深い認識力の獲得と、物事への主導権を握っていく姿勢は、最終的に「人類の革新」たるニュータイプへの覚醒につながっていく。
その果てとは、人類の最大の業である戦争の克服である。ガンダムの物語は、この戦争の終結と、ニュータイプに覚醒しつつある子供たちの登場で幕を閉じる。
TV版を再編集した劇場版三部作の三作目『めぐりあい宇宙』篇では、スタッフロールの後にこのような英文が記されている。
…And now
in anticipiation of your insight into the future.
(……そして今、あなた方の未来への洞察力に期待します)
このメッセージを観客に示した理由は他でもない。現実に人類を革新させていくのは、現実に生きる我々自身――なかんずく、青少年であるという期待である。
ガンダムのすごさは、リアリティ豊かに描かれた未来世界を生きる私達と同じような人間たちが、戦争を経験する中で、どのように人類の次の段階へとステップアップしてゆくのかを丁寧に描いたことにある。
ガンダムには様々な人間が登場する。真面目な人間、皮肉な軟弱もの、息子を理解しない親、自分の領分をわきまえて戦う兵士、謀略に走る策士、未熟な女スパイ、プライドに固執した人、自分勝手な人……。このように人間を正確に描いていることが、重要なのである。
人々に揉まれていきながら、主人公アムロはニュータイプへと覚醒していく。ニュータイプとは、認識力が拡大し、人同士で誤解無くわかり合える……という概念である。作中では相手の動きを読んだり、死者の声を聞くといったエスパー能力のような描写がある。
余談だが、私が思うには、ニュータイプは、仏陀のように悟りを得た人間のことではないかと思う。涅槃経には「一切衆生悉有仏性(通解:すべての生きとし生けるものには仏の生命がある)」とある。ニュータイプも、人が本来持っている能力が覚醒した姿として描写されている。
現実を洞察することで人類の性を克服するという姿勢を、段階的に体得する過程があるからこそ、終盤の飛躍的なニュータイプ描写に説得力が生まれるのである。
つまるところ、物語は因果を描くことである。そして因果の積み重ねを通すことで、逆説的に因果で説明しきれないこの世の不可思議を描くものである。
この世の不可思議とは、生まれてくる時代とか、人の縁とか、宿業とか、情緒とか、不条理とかである。それら峻厳な道理や不可思議を認知することから感ずる大いなるものへの畏敬(うわぁ、エモい、てぇてぇ、すげぇ、うむうむ、という感嘆)を与えるものこそが、私にとっての物語である。
『ガンダム』は、この大いなるものへの畏敬が山ほどある。リアリティのある舞台設定、メカニックデザイン、人類の営みが築いた歴史ロマン、殺陣の気持ちよさ、吹き飛ぶ兵隊、食糧不足、自分勝手な避難民、現場の指揮官止まりの男の哀愁、それを愛すと覚悟した女の強かさ、非情に徹すると決めたはずの青年が生き別れた妹と再会したときの動揺、戦場を知らない婚約者とのすれ違い、人生を決定づける宿命の出会いと別れ、そしてその先にある人類の革新……などなど。
一般的に物語で肝要とされる5w1hや構成、伏線の回収といった理論は、この大いなるものへの畏敬に導く方便に過ぎない。
大いなるものへの畏敬を持った読後感は、恍惚に似た気持ちよさがある。悲劇にどうしようもない気持ちになったり、恋愛劇にうっとりしたり、活劇に興奮したり、その後の余韻に浸ることは、すべて大いなるものへの畏敬といえるだろう。
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いかがだったでしょうか。文芸に興味のある皆様も、自分の言葉である事柄について自由に語ってみてはいかがでしょうか。そういった行為が、自身の考え方を深めていくよい機会になると思います。